【記憶の構造】暗記と理解とソシュールと 「Part 2」

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「Part 1」では、暗記とは「書いてあること・聞いたことを記憶し、再現できる状態にすること」であり、これは「文字や文章をそのまま記憶すること」であると書きました。そして、理解は「物事の道理がわかること」であり、これはつまり「書いてあること・聞いたことが指し示す物や現象の過程を想像できる」ことであると書きました。ここでひとつはっきりさせていないことがありました。

「物事」のうち「事に対する理解」については「現象の過程(あるべき道筋)を想像できる」と表現できますが、「物に対する理解」とは一体何なのか。少し考えてみると、物に対する理解というのは、その物の機能や性質を知っているかどうかということになると思います。その物を使うと何ができるのかであったり、叩いたり落としたりしたらどうなるのかという物性などです。これらも結局は「現象の過程」として表現できます。もちろん、動物や人物も「物」に含まれるでしょう。

ここまで書いてきてはっきりしたのは、暗記の対象が「文字や文章」であるのに対して、理解の対象は「現象」です(現象という表現が正しいかどうかはわかりませんが…)。視覚(ここでは視覚に限定)から得た情報がどのように理解の対象である「現象」につながるのかを箇条書きにしてみました。

これらは、視覚から得た情報を既存の知識と結びつけて想像することにほかなりません。この事実を考えれば、原理としては、暗記は「文字や文章」単体でも完結するのに対し(厳密には単体ではありませんが)、理解は単体ではありえないということになります。これは、(明示されているかは別として)現象が2つ以上の物の関係を表すものだからです。

ただし、暗記でも文字や文章を対象としている以上、言語的知識があったほうが記憶しやすいのも事実です。読みも意味もわからない言語を暗記するよりも、普段使っている言語を暗記するほうが格段に楽です。人にもよるのかもしれませんが、再現することを前提とした場合、人間は視覚的記憶よりも音声記憶に優れていることが理由であるように思います。

このように暗記と理解を考えてくると、暗記は言葉と密接に関係していることがわかりますが、理解は必ずしも言葉が必要になるというわけではなさそうに思えます。ただし、言語学的あるいは記号学的に見ると、理解もまた言葉と密接に関係していることがわかります。

ソシュールの理論

ようやくこのページの本題です。言語と言えば「近代言語学の父」とも言われているフェルディナン・ド・ソシュールがいます。ソシュールの理論の中には聞き慣れない言葉がいくつか出てきますが、時期によって言葉が変わっていたり、言葉が同じでも意味(指し示すもの)が違っていたりするため、専門家ではない私は正に理解できていない状態です。従って、以下の文章には私独自の考えが含まれている可能性があることをお断りしておきます。

ソシュールの理論の中には言語学的(あるいは哲学的)に重要な概念がいくつかでてきますが、ここで用いたいのは、言語記号は「表現と意味を同時にもつ存在である」という概念です。

ソシュールは記号の表現をシニフィアン、記号の意味をシニフィエと呼び、この2つが合わさったものをシーニュ(記号)と呼んでいます。記号の表現とは、音声であったり紙に書いてある単語であったり、手話なども含まれるかもしれません。記号の意味とは、表現されたものが指し示すものです。ただし、シニフィアンとシニフィエは相互に依存する存在であり、2つに分離されたものは言語学の対象であるシーニュではないとしています。言語や記号の機能が、自分を含む人へ伝えることであると考えれば、この2つを分離してしまえばこの機能が失われてしまうことになりますから、言語学的に分離不可能であることは納得できます。

もう一つ用いたい概念として、「言語の中には差異しかない」というものがあります。例えば、「赤色」と「黄色」という色を表す言葉が2つしかないとして、赤色と黄色のグラデーションになっている画像を見せて「赤色と黄色の間に境界線を引いて下さい」と言えば、人によって境界線の位置は異なるものの、赤色と黄色の区別はできるはずです。しかし、色を表す言葉が「赤色」しかなかった場合、上述したものと同じ画像を見せて「赤色の範囲はどこからどこまでですか」と聞いたとしてもすべて赤色になるわけですから、この問いは意味をもちません。つまり、言葉は、他の言葉との差異を認識できなければ意味をもたず、言葉と言葉の比較あるいは対立によって、その言葉が示す範囲が決定されるということです。

ソシュール理論からみた暗記と理解

表現(シニフィアン)と意味(シニフィエ)は言語学的には分離できないと述べましたが、「記憶」という視点から見ると、必ずしも分離できないわけではありません。意味(指し示すもの)が想像できているのに、表現が思い出せないということは度々起こります。表現を忘れたとしても、指し示す範囲が記憶に残ることは可能なのです(表現を忘れたとしても、他の言葉でその表現を代替できるため、分離されているかどうかは議論の余地がありそうです)。

この「表現と意味」に「暗記と理解」を重ね合わせると、個人的にはしっくりきます。暗記とは表現の羅列を記憶することであり、理解とは意味を記憶することであると、簡潔に表せます。

表現を記憶したかどうかは他の人と確認し合うことはできますが、意味は他の言葉の意味に依存することになり、皆が同じように理解しているわけではないため確認はできません。

「意味は他の言葉の意味に依存する」という考え方は、認知科学などで使われるネットワークモデルと類似しています。次回以降で、ネットワークモデルについても考えてみたいと思っています。

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