【記憶の構造】暗記と理解とソシュールと 「Part 1」

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暗記と理解が違うものであることはなんとなくわかりますが、いろいろ調べてみても、私が満足できる答えは得られませんでした。なぜなら暗記と理解そのものの違いについて言及しているものがほとんどない上に、「理解」を「暗記」の延長線上に捉えている、すなわち暗記しなければ理解できないとしているものがほとんどだからです。

ただ、私が見たサイトの多くは学校でのテストや入試を対象としており、これらは暗記しなくても理解していれば答えられる問題というのはごく少数に限られるため、仕方のないことなのかもしれません。

このページでは、暗記と理解についてみていきますが、記憶の構造については Part 2 で書く予定です。

暗記とは

いくつかの辞典を調べたところ「そらでおぼえること」「書いてあること・聞いたことを記憶し、再現できる状態にすること」というのが共通しているようです。明記されてはいませんが、これには言語的に記憶するという意味が含まれています。日常においても「人の顔を暗記する」とか「写真を暗記する」という使い方はせず、この場合は「〇〇を記憶する」という表現になります。

したがって、暗記とは記憶する方法の1つであり「文字や文章をそのまま記憶すること」となります。

人によって違うのかもしれませんが、漢字やひらがなの形や書き方を忘れることはあっても、自分で書いたものの読み方がわからないということはあまりないと思われることと、「写真を暗記する」という表現がないことから、暗記の場合は「視覚による記憶」ではなく「音声による記憶」と考えても差し支えないと思われます。

ただし、人間の記憶の構造を考えると、音声だけによる記憶というのは厳密にはありえない(「【記憶の構造】記憶の状態依存性」で記述)ことと、書いてあることを再現できる状態にするには、文字の形を覚えておく必要があることから、音声記憶や視覚的な記憶といった分け方をするのは難しいと考えられるので、ここでは「文字や文章をそのまま記憶すること」としておきます。

理解とは

こちらも辞典で調べてみると「物事の道理がわかること」(道理:物事のそうあるべき道筋)となっています。暗記との対比で述べるなら、「書いてあること・聞いたことを再現する」ことではなく、「書いてあること・聞いたことが指し示す物や現象の過程を想像できる」ということになるでしょう。この時点で、物あるいは現象の過程を想像できさえすれば「書いてあること・聞いたこと」あるいは「文字や文章」を意味的には再現(再構成)できるわけですから、必ずしも理解が暗記の延長線上にあるわけではないことがわかりますが、続けます。

ひとつ例を挙げれば、「いん いち が いち」「いん に が に」といった九九を覚えることは暗記であり、計算するのには便利ですが、必ずしもかけ算を理解することにはつながりません。九九だけでは二桁以上の計算ができないからです。理解の仕方はさまざまですが、例えばかけ算を足し算として表現できたり、幾何学的にその過程を想像できるなどの場合に理解していると言えるでしょう。例えば「1 × 2」という問に対して「いん に が に」という音声を暗記していなくても、1が2つある「1 + 1」として解釈できれば、問いに答えることができるということです。

ただし、他者が理解しているかどうかを知ることは、おそらく不可能です。理解の仕方がひとつではないこともありますが、この他にも、例えば一桁のかけ算の問題をだして相手が答えられたとしても、それが九九などを使って暗記されたものなのかどうかを周りの人は判断できないということが挙げられます。極端なことを言えば、質問に対する答えや説明文を暗記してしまえば、理解していなくても答えられてしまうということです。つまり、「この人は説明できるから理解している」とはならないということです。

逆に、理解していても説明できるとは限りません。暗記していれば暗記しているものをそのまま話せばいいわけですが、理解はしているが暗記はしていない場合、説明するには頭の中で考えていることを言語化する必要があるため、言語化する能力も関係してきます。もちろん多くの人は言語化する能力を持ってはいますが、日常の場面で人から説明を求められて、その場ですぐに答えられなければ、「この人は理解していない」と思われることでしょう。すぐに答えられるというのは、暗記しているか、何度も頭の中で説明を繰り返したり、何度も人に説明したりしていることで、説明文が定型文化されているため(これもある意味暗記ですが…)、スラスラと答えることができるのでしょう。

理解そのものは定型化できない?

暗記は文字や文章をそのまま記憶することですから、『「A」という文字を「A」という文字として記憶する』という型で表現できますが、理解を定型的に表現することはかなり難しいように思います。これには、人間の記憶の構造あるいは言語の構造が少なからず関係しているように思います。

言語と言えば「近代言語学の父」ともいわれているフェルディナン・ド・ソシュールという言語学者がいます。このページはここまでにして、次のページではソシュールの理論を基に理解や記憶の構造についてみていきたいと考えています。

※このページで使用した辞典は『カシオ 電子辞書 エクスワード 生活・教養モデル XD-Z6500GD』に収録されている『広辞苑』『明鏡国語辞典』『新明解国語辞典』です。

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